全ての人が救われるべき人間ではない

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自らを救世主だとは思わない。

しかし力あるものだとは思っている。

実際に力がある云々はともかく人より少し抜きん出ているとは自負している。

好奇心を持ち成長を糧としているし、実際知識量は同年代と比べても多いだろう。

力あるものはそれなりの責務を伴う。

持ってるが故に使わざるを得なかったりはたまた強すぎるが故に制御しなければ調停が取れない。

言ってしまえば自らを御するので精一杯なのだ。

自分でも扱いきれていないのに人のためになど到底できるものでは無い。

例えば銃

現代生活に慣れているのであれば、見ればそれが一体なんなのか。何をするものなのかを理解できるだろう。

しかし、現代的な生活を行っていない、現住部族などに銃を渡しても理解できないだろう。理解したとしても持ち方、立ち回り、戦略など効果的に使えないだろう。

こういうと「未熟」という言葉が望ましい。

そう、未熟なのだ。

扱いきれず、人を傷つける恐怖を知っている。

習慣というのは無意識に定着してしまうことがある。

その扱いきれず人を傷つけ、それはカルマとして帰ってきた。

それが恐怖として脳に刻み込まれている。

生まれ持った環境。

それは母、父、姉、祖母、祖父……

家庭内で受信した様々なネガティブも記憶として残っている。

僕がそこで得たものは

「例え血縁であっても信用してはならない」

そんな人間が簡単に人を信用できるのでしょうか?

そんなセンシティブな感覚を持っている人間が誰にでも優しくできるのでしょうか?

僕には出来ません。

優しくする人は選びます。

救う人も選びます。

それが一般的に良くないとされていても出来ません。

社会不適合者だという自覚はあります。

けれどこれはもう仕方ないものです。

記憶、記録、感覚、人格

全てを取り替えなければ出来ません。

それをしたら僕は僕で無くなります。

こう理解してるからなるべく

身近な人、関わる人、親しい人には

優しくしていきたいものです

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